Sayaka & Saori 脊髄小脳変性症の姉妹のお話(№41 20210828)

 当会の会員Sayaka さんは今年6月、大切な妹さんとお別れしました。妹さんは高校生で体の異変を感じ、人生これからという矢先にこの病気を宣告されたのです。けなくなり、杖、そして車いす。若いだけに症状は駆け足のように進み、数年前から病院でベッド生活になっていました。そんな妹さんにSayaka さんはずっと寄り添い、妹の生きた証を残そうと実名でブログを綴ってきました。
 本稿はブログ「sayaka’sBlog- 脊髄小脳変性症の姉妹のお話」から抜粋して構成しています。この病気と健気に闘ってきた姉妹がいることを知ってもらえたら幸いです。(編集部)

Saori のこと
 病気の母と4歳下の妹がいた私は、6歳にしてなんとなく「私がしっかりして守らなければ」と思いました。通院のためにバスに乗った時のこと。母が座席に座る前に急発進したため転びそうになったのに、逆に運転手にすごく怒られたのを幼いながら覚えています。
「ああ、私がしっかりしなくちゃ!」と…。
 Saori が保育園児の頃自転車でお迎えに行って、今じゃダメですが、よく二人乗りで帰りました。
 小学生になり、私がバレーボール部だったのでSaori もバレー部に入り、中学生になって教えたわけでもないのに自転車も自分で乗れるようになっていました。
 高校生の頃は私がお弁当を作ってあげた記憶がないので自分で作っていたんですね。大好きなチップとデールの黄色のお弁当箱を買ってきたのを覚えています。

高校の頃、ある日
 学校から「体育館での集会に椅子を持って行けなかった」と連絡がありました。すぐ母の行っていた大きな病院にかかりました。「お母さんと一緒だねぇ」そう診断されました。まだ高校3 年生なのに。
 身障手帳を取得し働く事はできませんでしたが、デイサービスに通うようになり、作業所がある所は、パソコンで年賀はがきの宛名打ち、宝飾店のDMの宛名シール貼りなどやりがいを持ってやっていたと思います。それからは2 カ所のデイサービス、2事業所のヘルパーさんを利用しながら頑張ってくれました。
 ある時から失便、失禁等、なるべく自分で片付けようとしていました。風呂に入れてあげる事も何度かありましたが、そんなに手を煩わされた記憶はありません。

病気を知ってから
 2人でいろんなところに行きました。お寿司屋さん、スパゲティ屋さん、私が気になっていた天ぷら屋さん、ショッピングモール、アウトレットモール、コストコ等。
 映画も観ました。アナと雪の女王、ルドルフとイッパイアッテナ。カラオケも父の行きつけのお店で歌いました。中でも大塚愛、AKB48 が好きです。私は声が大きく、「姉ちゃんと一緒に歌うが、やだ!」とよく言われました。私の好きなアーティストが地元で握手会に来た時も一緒に行きました。SKY-HI、AAA の日高くん(だっちゃん)です。

パーキンソン症状が(2017.9.18)
 入院した頃から、脊髄小脳変性症からくると思われるパーキンソン症状の震え、それに伴う情緒不安定がみられるようになりました。看護師さんには、「Saori ちゃん、一晩中泣いとったから寝とらんと思うよー」と連日言われ、毎日、消灯時間ギリギリまでいて、落ち着いて眠り出してからそーっと帰っていました。
 夜になると熱が出たり、震えが止まらない間も私は何もしてやれず、ただ抱きしめていました。自分もやがて同じようになるのが、正直、怖いです。でも今1 番怖いのは妹なんだろうなと思います。今一緒にいれる間に1番近くに、傍にいたいと思います。

誤嚥性肺炎に(2017.10.31)
 9/3 から入院しており現在も入院中です。この1カ月半でSaori の状態が変わりすぎて、家族も受け止められないのが本音です。脊髄小脳変性症の症状も進行しており、体の震えにエネルギーを使い、痩せる一方です。飲み込む一連の動作もうまくいかず、誤嚥性肺炎を起こし絶飲絶食中です。これから胃ろうをする事に決めました。延命措置です。一日でも長く生きるために。

危篤(2018.1.1)
 今朝、病院から、「サチュレーションの値が下がり身体の中の酸素が少ない状態」と連絡があり、すぐに駆けつけました。今日から泊まり込みで病院にいます。

心臓が止まる(2018.1.9)
 11:30すぎ、Saori の心臓が止まりました。すぐに心臓マッサージをして人工呼吸器をつけて、今はある程度落ち着いてきて、あとは目を覚まさないかと思っています。
 看護師さんによるとそれまで前兆はなく、とても落ち着いていて、突然でみんなビックリしたとの事。

持ち直す(2018.1.18)
 あれから無事に1週間経ちました。あの時は本当にもう危ないのかなと思いましたが、日に日に呼吸・脈拍共に落ち着いてきました。穏やかに寝ている時間も増えました。
 今日から3日間、胃にやさしい栄養剤を入れて下痢等がみられなければ、以前の栄養剤に戻していくとの事でした。本当に骨と皮なので少しでも体重が増えると嬉しいです。
 胃ろう、気管切開、中心静脈栄養、おしっこもバッグになって…よく頑張っている!何より、楽に、身体に負担が少ないような…相変わらず熱発はしているが…。姉ちゃんはいつかまた車椅子で散歩できるように、元気な姿の夢ばかりみる。

安定していた時期(2018.7.30)
 ここ最近はSaori の病状も安定しており、ブログ更新もしておりませんでした。相変わらず熱は37〜38℃をいったりきたり。高い日は40℃を超えます。でもよく笑うようになって、簡単な意思疎通を図ることができます。毎日どんな事で笑うか考えています。1番の鉄板ネタはやはりちょびですね。8割方笑います。(ちょびは白黒の愛猫の名)
 ある日、20:00 になったので帰ろうとすると、「わーっ!」と声は出ませんが泣きわめきます。「どうしたの?」と声をかけ、手をさすります。でもおさまりません。
「Saori、寂しいが?」と聞くとうなづきました。涙があふれます。私は毎日2時間以上、父は仕事終わりに毎日来ています。私もA型作業所で働き始めました。毎日欠かさず来ています。それでも寂しいと。でも家で看てやる事は出来ません。私自身もふらつく事が多くなったように思います。

病院でハロウィンパーティー(2018.10.30)

コロナで面会謝絶(2020.9.10)
 明日は母の命日。もう11年が経ちました。母は私が中1の頃、まだシルバーカーを押しながら歩いていたような気がします。段差を乗り越えられず、大腿骨骨折。これを機に老健に入所。母は「Saori だけ心配だ」と口癖のように言っていました。この頃Saori はすでに発病。この9年後に私も発病…。でも亡くなる前に「産んでくれてありがとう」と言えた場面は忘れられません。
 Saori には面会禁止で会えませんが、この前、初めてビデオ通話をしてきました。私が病院へ出向き、あるお部屋で沙織の病室とビデオでつながるというものです。病室にカメラを設置しているとき、「お姉ちゃんが今日テレビ電話にくるよー」と伝えると、それからずーっとニコニコしていたそうです。
 Saori は気管切開をしているので話すことができません。通話は担当の師長さん、看護助手の方に付き添っていただき、帰り際、「姉ちゃん帰るね。バイバイでき?」と言うと、画面には映りませんでしたが、影が動いていました。沙織の身体は、拘縮がひどく、あまり動かすこともできません。

急変(2021.3.20)
 本日11 時30分、病院から連絡があり仕事を早退し、父とそれぞれ病院に向かいました。『今までにない高熱からくる頻脈、昇圧材を使っても血圧の降下』

また持ち直す(2021.3.26)
『危篤』状態から早いもので1週間が経ちました。一時はもう心臓が止まるのを待つしかないと絶望感の中にいましたが、本人の頑張りはもちろんの事、応援して下さる皆さん方のおかげで見違えるほどのバイタル数値です。まだ安心はできませんが、先生がおっしゃるには来週には峠を越す模様と。
もう一度笑顔が見れますように。


 2度にわたって危機を乗り越えてきたSaori さんでしたが、3度目をクリアする力は残っていませんでした。
6月22日、高熱を発し、血圧は低下の一方。薬も効かなくなり28日にSayakaさんたちは病院に呼ばれました。
Sayaka さんは「姉ちゃんもお父さんもおるよ。もう頑張らんでいいよ。偉かったね。」と声かけました。そして脈拍が100をきるかきらないかで0になりました。
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 多くの人に支えられ懸命に生きたSaoriさん、「次は私の番」と覚悟を決めて前を向くSayaka さん。姉妹の絆は永遠に。

2014年8月 24時間テレビの地元会場で
右はタレントの高原兄さん

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